淡谷のり子
1907年、青森市の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立青森高等女学校を中退し母と妹と共に上京。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。しかし家がだんだんと貧しくなったため、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを務めるなどして生活費を稼いだ。
世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。母校の研究科に籍を置く。母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動する。クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。
日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、スターダムへ登りつめる。
晩年までテレビやコンサートで精力的に活動を続けてきたが、長年の音楽仲間で戦友ともいえる藤山一郎・服部良一が逝去した1993年に脳梗塞で倒れる。軽度ではあったが言語症や手足にマヒが残るなど体調は悪化し、この頃から急速に仕事への意欲を失い始めた。この時期、自身のライブを録音したテープを聴き「これでは人様に聴かせられない」と絶句し、一線を退く決心をしたとも言われ、露出は無くなった。
当時は「このエラそうなおばちゃんは誰なんだろう」と思って「ものまね王座」見てましたが、亡くなってからその人物像を知りました。
「ものまね王座」でも最後の方は、聞きづらそうにしていたり、しゃべるのもやっとだったのを、動画見て思い出しました。
清水アキラやコロッケと繰り返される「天丼」は、淡谷先生に迫力があったので面白かったですよね。
ネットの反応。
今回の件は、淡谷のり子先生の呪い
清水「窓を開ければ〜ババア〜♪」
淡谷「胸悪くなった」https://t.co/Za4Wf1rGpX pic.twitter.com/jtaeq3UOND— 鮎川タミー (@tammy_ayukawa) 2017年10月13日
1999年に逝去され、今日で19回目の命日を迎える歌手、淡谷のり子さんのご冥福をお祈りします。 https://t.co/NJiMpTM6Sl
— ご冥福bot (@meihuku) 2017年9月21日
ライオン ルックCM。西川のりお、淡谷のり子@retoro_mode pic.twitter.com/WGYpbUCnRS
— みどりん (@mid_rhino) 2017年9月12日
「別れのブルース」(淡谷のり子)
昭和12年演歌界において「戦争反対」を叫び続けていたのは、淡谷のり子さん唯一人。この歌が原点。「別れのブルース」は反戦歌である。 pic.twitter.com/l0RidxDXHt
— 島一夫(日本未だ植民地) (@sima200306) 2017年6月17日